2008年02月27日
もみあげが長い。
昔からファッションの一部だったんでしょうね!
木戸 孝允(きど たかよし、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)は、日本の武士・長州藩士、政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。
江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられる。名の孝允は「コウイン」と有職読みされることもある。
吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者・指導者・藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。
維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎え、当初から「政体書」による「官吏公選」など開明的諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、兼ねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。
明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の病床に就き、もうろう状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。
昭和21年(1946年)正月元旦、昭和天皇による「人間宣言」の際、戦後の大方針として木戸孝允による「五箇条の御誓文」があらためて示されている。
(以上、ウィキペディアより引用)
有名な歴史人ですよね!
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